住吉大社に詣でる②

住吉大社に詣でる①」からの続きです。

 

【御祭神の由緒】

 第四本宮に祭られている神功皇后住吉大神と御神縁が深いです。

 以後の記述は日本書紀によります。

 

 神功皇后は仲哀天皇の后です。神功皇后の御名前はオキナガタラシヒメノミコト(古事記:息長帯日売命、日本書紀:気長足姫尊)です。神功皇后は、幼少のころから「聡明叡智」で「貌容壮麗」であったといいます。頭が良くて美女! そして、神懸りされるお方でした。

 仲哀天皇はヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)の皇子です。仲哀天皇の御名前はタラシナカツヒコノスメラミコト(帯中日子天皇、足仲彦天皇)です。「容姿端正。身長十尺」であり、長身のイケメンでした。

 

 その仲哀天皇が熊襲(クマソ)を討とうとして福岡市の香椎宮に滞在していらっしゃいました。その年の九月に神が神功皇后に懸かり託宣を下しました。「西に国があり、金銀や宝がある。その国を帰服させよう」との意でした。しかるに仲哀天皇は「高い所に上って西を見ても海が見えるばかりで国は見えない」と言って、いつわりをなす神として神託を信じませんでした。再び神が神功皇后に懸かり、皇后の懐妊を知らせましたが、それでも天皇は神を信じませんでした。それで仲哀天皇は神の怒りを買い、熊襲を撃つも勝てず、翌年の二月に崩御してしまいました。

 

 神功皇后は仲哀天皇が神の教えに従わずに早く崩御されたことを悲しんで、祟る神を知り、宝の国を求めようとお考えになりました。そして群臣に命じて国の大祓いをされました。三月の吉日に神功皇后は自ら神主となり、武内宿禰(タケウチノスクネ)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を審神者(サニワ)にして「先日、天皇に教えたのはいずれの神か、願わくばその名を知りたいです」と申されました。七日七夜になると、答えがあり四柱の神が名乗られました。すなわち、天照大御神の荒魂稚日女尊(ワカヒルメノミコト)、事代主神(コトシロヌシノカミ)、住吉大神でした。

 

 この時の神々の名乗り方が奥ゆかしいのです。住吉大神は「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神有す」と名乗られました。読み方は「ひむかのくにのたちばなのおどのみなそこにいて、みなはもわかやかにいでいるかみ、みなはそこつつのお・なかつつのお・うわつつのおのかみます」です。この言霊がすばらしいです。

 

 神功皇后は神の教えのまにまに神を祭り、熊襲の国を撃たせたところ、しばらくして自分から帰服しました。神功皇后は、さらに神祇を祭り、自ら海を渡り西を伐とうと思いました。このことが神意にかなうか知るために「頭を海水に入れてすすぐときに、もし験(シルシ)があれば、髪が自然に二つになれ」と言って、海に入れてすすぐと髪は二つに分かれました。皇后は分かれた髪を束ねてみずらに結い、男装をして西の国を伐つことを群臣に宣言しました。すると「神の和魂は皇后の命を守り、神の荒魂はいくさ船を先導しよう」との神の教えがありました。このとき皇后の出産の月にあたっていたので、皇后は石を腰にはさんで「事を終えて帰ったら産まれるように」と祈りました。

 

 その年の十月に順風が吹き、神功皇后と軍勢は新羅に到りました。新羅の王は帰順し、金銀や宝を貢ぎました。神功皇后は日本に凱旋して帰り、十二月に筑紫で譽田天皇(ホムタノスメラミコト)を産みました。すなわち、応神天皇です。

 

 軍に従った表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が皇后に教えて「わが荒魂を穴門の山田邑に祭らせよ」とのたまいました。それで長門の国に建てた社が、下関市の住吉神社です。

 また、天照大御神は「わが荒魂を廣田の国に居らしむべし」とのたまいましたので、西宮市の広田神社に祭られました。

 稚日女尊は「われは活田長峡国(イクタノナガオノクニ)に居らむとす」とのたまいましたので、神戸市の生田神社に祭られました。

 事代主尊は「われを長田の国にまつれ」とのたまいましたので、神戸市の長田神社に祭られました。

 また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が「わが和魂をば大津の渟中倉(ヌナクラ)の長峡(ナガオ)にまさしむべし。すなわちよりてゆきかよふ船をみそなわさむ」とのたまいましたので、神の教えのまにまに、鎮座せしめ祭りました。これが、大阪市住吉区の住吉大社です。 

【住吉大社の御神徳】

 住吉大神は、海神であり、海との関わりが深いです。また、軍神の一面もあります。

  住吉大神は禊ぎのときに出現されたので、お祓いと厄除けの力が大きいです。

 由緒より、航海安全・交通安全・旅行安全の功徳が大。

 和魂の力が大きく、商売繁盛、家内安全の功徳も大。

 そして、総合的な諸願成就のお力があります。

 

 なお、住吉大神には、言霊の神・和歌の神としての特長があります。古来。住吉大神は和歌の神として崇敬されてきました。

 寶篋院殿住吉詣記によれば、「貞治三年(1364年)卯月上旬、(中略)住吉にまかりて(中略)、此御神は和歌の道に心ざし深き人をよくまもらせ給ふと、昔よりいひ傳へ侍り、こと秀歌を好む人、此神にまゐりて祈誓申せば、必その道にかなひけるとぞ、」との記述があります。住吉の神は、和歌の道の志深い人を守り、和歌の道の上達を助けるとのことです。

 また、藤原長秀の歌は、住吉の言霊の力をたたえているように思われます。

 「住吉の松のことのはかはらずは 神代にかへれしき嶋の道」

 言葉の持つ表現力を増し、和魂の力でさまざまな存在と良き交流をして運気を上げるというのが、住吉大神の特徴的な功徳でしょう。コミニュケーション能力が向上します。住吉大神と交流して喜ばれるには、和歌を詠むのがよろしいでしょう。

 

 神功皇后の功徳とは何でしょうか。美男美女になる、頭脳明晰になる、神霊能力、勇気、統率力、素晴らしい子供を授かる等々、神功皇后の事跡にあやかることすべてがそうでしょう。 

 

【現人神】

 住吉大神が現人神として現れるという伝承があります。すなわち、住吉大神が老人の姿をして顕現するというのです。

 拾遺和歌集の神楽歌にある、安法法師が住吉に詣でた時の歌です。

 「あまくだるあら人がみのあひおひを おもへば久しすみよしの松」

【住吉大社を散策する】 

 住吉大社では巫女さんを神楽女(カグラメ)と呼んでいます。この神楽女を観察してみると、髪飾りが個性的で面白いです。松の枝に鏡が掛けてあり白鷺が止まっているデザインです。 

 

 第一本宮と神楽殿の間を抜けて、北に向かってみましょう。すると、社務所と北駐車場の間に土俵があるのが見えます。これは、大相撲春場所の際に立浪部屋が大阪で稽古する場所だそうです。

 

その北側に摂社の大海神社(たいかいじんじゃ)があります。

大海神社(たいかいじんじゃ)
大海神社(たいかいじんじゃ)

【摂社 大海神社】

 人でにぎわう住吉大社本宮とは対照的に、大海神社は人もまばらです。

 大海神社の神域は静謐な空間であり、本当に落ち着きます。

 御祭神は、海の神である豊玉彦、豊玉姫です。

【玉の井】

 大海神社の社前にある「玉の井」の手水舎です。海神より授かった潮満玉を沈めたという伝承がある井戸です。

 珍しく井戸からポンプで水を汲むというお手水です。ポンプのレバーを上下して水を出してみると、金気くさい水が出ました。口をゆすぐには、備え付けの水道水の方が適します。

市戎大国社のえべっさん
市戎大国社のえべっさん

【末社 市戎大国社】

 末社の市戎大国社(いちえびすだいこくしゃ)は、本宮の西南に位置しています。

 御祭神のえびすは事代主命(コトシロヌシノミコト)、だいこくは大国主神(オオクニヌシノミコト)です。

 一月九・十日には市戎大国祭(えべっさん)が行われ、にぎやかです。この写真は2016年1月10日に訪れた時のものです。

 福娘が福の餅まきをしますが、遠投する人は少ないので、近くにいる方が餅に当たる確率が高いです。