人の想念とはどのようなものか興味があり、言葉で表された一例として宮沢賢治の「心象スケッチ 春と修羅」を読んでみました。内容は詩なので、論理的な文章でないことはもちろんです。そして、私には意味不明な部分が多かったです。
風景や感情に、地質学や農学や仏教の用語が混じり、背景に時代的な古さも感じます。出てくる科学用語からは昔の学校の理科室に鉱物標本や骨格模型、試薬ビンなどが置いてあるような古めかしい雰囲気を感じます。
全体としては難解な中で、春と修羅の序はまとまっており、比較的理解しやすいように思われました。以下、引用します。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と硬質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゝ゛けられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
[以下略]
この序は、宮沢賢治の人生観、世界観なのでしょう。詩人の鋭敏な感性は人を「有機交流電燈」「因果交流電燈」と表現しました。しかし、ディベートの悪魔が、「この表現は適切なのか、無条件に認めてよいのか」と囁きます。「比喩なんだから目くじら立てないの」と大人の理性が止めますが、気になってしまいました・・・。
有機とは生物が作り出す化合物を意味し、具体時には炭素・水素を含む化合物を表します。有機に対する言葉は無機であり、鉱物などの生物以外に由来する化合物を意味します。したがって、人を「有機」というのは合っています。
宮沢賢治は人の肉体を電燈に例えています。人の肉体は因果で生まれ、死によって失われます。その事は理解できます。
では光っているのは何でしょうか。オーラ?
神や精霊が光として存在することはあると思います。
宮沢賢治が書いた「ひかり」は実際の光を指すのでしょうか、生命の比喩でしょうか、それ以外の意味でしょうか?
「ひかりはたもち」ということは肉体は失われても「ひかり」は保たれるということでしょうか。
「ひかり」の意味が決まらないので、これらの点ははっきりとわかりません。
電燈の照明が青くなるでしょうか。蛍光ランプで青い発光色を持つものがあるので、これは正しいです。蛍光灯のグローランプの光も青いです。
では、なんで「わたくしといふ現象」を青い照明にしたのでしょうか。白や金色ではいけなかったのでしょうか。この点はよくわかりません。
推測ですが、宮沢賢治は青が好きだったのではないでしょうか。詩の「春と修羅」には青の表現がたくさん出てきます。
「いかりのにがさまた青さ」「日輪青くかぎろへば」「かなしみは青々ふかく」「鳥はまた青ぞらを截る」
では、「交流電燈は明滅する」でしょうか。
明滅の意味ですが、辞書では以下の意味です。
●[明りなどが] 明るくなったり、消えたりすること。(新明解国語辞典)
●あかりなどが、光ったり消えたりすること。明るくなったり暗くなったりすること。(日本語大辞典)
具体例として交流を50Hzないし60Hzの商用電源とし、電燈を白熱灯とします。点灯すると、白熱灯のフィラメントには電流が流れ続けます。より正確には、電流が止まる瞬間がありますが、それ以外の時間では、電流の流れる向きは交互に変わり、電流は電圧の変動に同期した大きさで流れます。しかも、フィラメントには熱容量があるので、電流が0の瞬間にも残光があります。商用電源では白熱灯に100ないし120Hzで明暗の変化がありますが、人間の目のちらつきへの感知限界は50~60Hzとされ、残光もあってちらつきは気になりません。交流で白熱灯が消えることはないということです。
結論としては、交流電灯は明るくなったり暗くなったりするので、「交流電燈は明滅する」という表現でいいことになります。しかるに、「せはしくせはしく」明滅して50~60Hzを超えると人間はそれを感知できません。
明滅して発光する生命体には、蛍やクラゲの実例があります。
人間の生体の電気的な波動現象は心電図、筋電図、脳波などで観察できます。人を明滅する電燈に例えるのはあながち外れていないのかもしれません。
しかし、風景やみんなもいっしょに明滅して、それをみんなが同時に感じるかは疑問です。生命が明滅しないと考えている人もいるでしょう。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり (斎藤茂吉)