座禅への疑問

 座禅は瞑想法の一種だと思われますが、曹洞宗の禅は黙照禅といって何も考えずにただ座ります。悟りを得ることが目的ではなく、ただただ座る。目は半眼にして背筋を伸ばし、呼吸を整え、ただ座る。そのように道元は教えたと思います。

 

 軽い座禅や瞑想はリラックスして自律神経の調和に良いと思います。しかし、座禅も瞑想もそうだと思うのですが、深く行うと弊害が出るようです。たとえば妄念妄想ですが、それもストレスやトラウマから、霊障や悪因縁レベルまでいろいろ噴き出す可能性があります。それと、魔境。狐狸や魔物がとりついて幻覚を見せることです。また、禅病。これは自律神経失調の一種なのでしょうか?

 

 禅では魔境については、「仏に会えば仏を殺せ。祖(達磨)に会えば祖を殺せ」と過激な言葉で魔境を払うように注意しています。そして、無の境地に至るのが禅なのだと。

 

 禅について「禅天魔」と厳しく批判したのは日蓮上人ですが、私には禅を批判する資格はありません。 ここからは、私の疑念になります。私は禅を批判するつもりはなく、単に疑問を表しているだけです。

 

 すなわち、禅をして意識が拡大し、幻覚にせよ釈迦如来がやって来る。それを見境なく殺してしまってよいものでしょうか?なかには本物の釈迦如来が居るのではないでしょうか。そうして高次の霊的存在と交流することで人の霊性の進歩がなされて来たのではないでしょうか。何か来たら殺そうと身構えている人のところに、神仏や聖霊は行かなくなるのではないでしょうか。無の境地といいますが、「無」は般若心経でいうところの「空」とは別ものでしょう。座禅で「無」にいるのは意識の暗黒を見ているだけではないのしょうか。神仏の形を示す以前の根源の宇宙の姿を見ているのならいいのですが。

 

 禅をするときにはしかるべき師につけといいます。その師の大元は曹洞宗では道元禅師です。道元禅師が今、どの霊界にいるのか気になります。極楽浄土ならいいのですが、周りが無の暗闇地獄に落ちていなければよいのですが・・・。白隠禅師の延命十句観音経霊験記の地獄の記述を読んだことと、永平寺の霊廟があまりにも陰気で昏かったのでそんなことが気になりました。