ヘルマン・ヘッセ「シッダルタ」:真正の悟りの体験

 これはヘルマン・ヘッセの晩年の小説です。したがって、創作であり、仏陀の伝記ではありません。小説の原文はドイツ語ですので、その日本語訳は明確で文学的なものを選ぶべきです。その観点から、手塚富雄訳の岩波文庫版が良いと思います。手塚氏の文章は明晰であり詩的な鑑賞にも耐える質を持っています。

 

【シッダルタのあらすじ】

 作品のストーリーはざっと以下のようなものです。

 

 主人公のシッダルタは古代インドにバラモンの息子として生まれました。シッダルタは聡明な若者でしたが、彼の心は渇いており、真我(アートマン)を求め、心の矢を梵(ブラフマン)の的に向かって放つのでした。

 

 ある日、シッダルタは同じくバラモンの息子である友人のゴヴィンダに決心を語ります。すなわち、町を通りかかった三人の沙門(僧)の群れに加わることを。そして、シッダルタはバラモンの父にそのことを願い出ました。父は怒りましたが、シッダルタの決心が固いことがわかると許可しました。それから、シッダルタはゴヴィンダとともに沙門に加わり、瞑想や断食や滅我の修行をしました。シッダルタは瞑想も肉体からの解脱も自我からの逃避に過ぎないと語ります。あるとき、シッダルタとゴヴィンダはゴータマとよばれる釈迦族の賢者・仏陀が出現したという噂を聞きました。そして、二人が沙門の長老に沙門を離れたいと言うと、長老は激怒しました。そこでシッダルタが霊力を使うと長老はその意のままになってしまい、二人は沙門と円満に別れることができました。

 

 シッダルタとゴヴィンダは仏陀の説法を聞きました。ゴヴィンダは仏陀の教えに帰依し仏陀の弟子になりました。シッダルタは仏陀と話します。シッダルタが言うには、仏陀は世界が因果生滅の法則によると明瞭に説かれたが、一点だけ説かれていない秘奥があり、それは解脱である。そして、解脱を求めて自分は遍歴をしたいと。仏陀は微笑みながら歩み去りました。

 

 それから、シッダルタは町に行き、美しい遊女カマラと出会いました。シッダルタは商人のカーマスワミーを訪ね、彼のところに勤めて商売をしました。そうして、シッダルタは富を得てカマラとの性愛と悦楽の日々を送りました。

ある日シッダルタは自分が死に近づきつつあり、カマラとの生活が遊戯であること、そして遊戯が終わったことを知りました。シッダルタは町を捨てて失踪しました。

 

 シッダルタは町を離れて河のほとりでゴヴィンダと再会しすぐ別れました。シッダルタは河の渡し守の老人ヴァズデーヴァと出会い、彼とともに渡し守をします。シッダルタはヴァズデーヴァとともに河の声に耳を傾け、時は存在しないという河の秘密を知ったのでした。

 

 あるとき、カマラがシッダルタとの間に生まれた幼い息子をつれて河のほとりを通りました。そして、カマラは毒蛇に咬まれて死んでしまいました。シッダルタは残された息子を愛して育てますが、ある日その少年は町へと逃走してしまいました。シッダルタはヴァズデーヴァと共に河の歌を聞きます。するとシッダルタの父の姿やシッダルタ自身の姿、息子の姿、カマラの姿、ゴヴィンダの姿が現れては混じり合い融け合って目標へと進んで行きました。河の流れに百の声が千の声が、いっさいの声が混じりあった歌の全体、を聴き取ったとき歌は「オーム」の一語から成っていました。ヴァズデーヴァは、この時が来た、私は「」の中に行くと言って去っていきました。

 

 時が流れ、老人となった渡し守シッダルタと老僧になったゴヴィンダが再会します。シッダルタはゴヴィンダに時は実在しないと言います。そして世界は一瞬一瞬に完全であると。そして、シッダルタは石を例にとり、いろいろな石があるが、どれも梵(ブラフマン)であると同時に石であり、そのことが好ましく不思議に思えると語りました。そして「もの」は愛せるが言葉を愛することができない。言葉や思想を重んじないが、「もの」を重んじるとも言いました。

 すると、ゴヴィンダはシッダルタのいう「もの」とは実在するのだろうか、迷妄(マーヤー)の欺瞞による単なる影に過ぎないのではないだろうかと質問します。シッダルタは、ものが影ならば自分も影であると言います。そしてシッダルタは世界を愛しうると語ります。ゴヴィンダはシッダルタの語ったことが分かりませんでした。ゴヴィンダは別れに際して、自分が理解できる何かを与えてくれるようにシッダルタに頼みました。シッダルタに促されてゴヴィンダがシッダルタの額に接吻すると、百の顔、千の顔が現れては消えるのが見えました。それらは常に変化して更新されていて、すべてがシッダルタでした。魚、嬰児、人殺し、裸の男女の群れ、死骸、様々な動物、神々をゴヴィンダは見ました。それらのおのおのが他を助け、愛し、憎み、滅ぼし、新たに生み合って無数の相互関係を織りなしていたのを見たのでした。それらは「死の意志」を示していましたが、いずれも死なずに姿を変えるばかりでした。そしてそれらをすべて覆う希薄なものが透明な膜のように仮面のように張られていて、その仮面がシッダルタの微笑む顔であり、仏陀の微笑みと一緒であったのでした。ゴヴィンダは深く頭を垂れ、涙が頬をつたって流れました。

 

【感想】

 この小説はヘッセの悟りの体験が基になっています。ヘッセの仏陀についての理解は深いです。シッダルタは父を捨て、沙門を捨て、友と別れ、仏陀とも別れ、商人も愛人も捨て、息子に捨てられ、渡し守と別れ、友と再会します。捨ててばかりの人生です。人生は捨てなければ悟れないのかという疑問が出ますが、きっとそうではないでしょう。ヘッセが描いた幻影(ビジョン)は真正だと思いますが、人によって必ずしも同じではないでしょう。また、ビジョンを伴わない悟りもあるでしょう。小説シッダルタでは主人公が老人になって悟りの表現をしたところで終わります。現実世界では悟って終わりではありません。むしろ悟ってからの方が大切です。たとえていうならば、観音様がソフトクリームを売っている世界でしょうか。