仁徳天皇陵を仰ぐ

 今回は、神社・仏閣テーマの番外編です。すなわち、対象が古墳です。仁徳天皇陵は大仙陵古墳ともいい、日本最大の前方後円墳です。

早朝の仁徳天皇陵
早朝の仁徳天皇陵

 2015年に私は堺市に次元層採りに行きました。その際、南海堺駅近くのホテルから早朝に出発し、仁徳天皇陵の横を通って、大鳥大社に行き、浜寺公園の横を通って戻るのが私のジョギングコースでした。

 この古墳の方墳を拝む場所が南側にありますが、そこから見える広葉樹の森の風景が、伊勢神宮の背後の山に似ているのです。あるいは房総半島南端の安房神社の森の風景にも似ているかもしれません。江戸時代から明治時代では、この古墳は木がまばらであったといいます。森が年々立派になってきたのですね。 

 仁徳天皇陵とされている古墳は非常に大きくて、遠くから見ると木が生い茂った自然の丘にしか見えません。傍らにある陪塚(ばいちょう)でさえ、地方の古墳くらいの大きさがあります。周囲には堀がありますが、宮内庁管轄なので立ち入り禁止です。この古墳は宮内庁管轄で良かったと思います。堺には大小多くの古墳がありますが、宮内庁管轄でないニサンザイ古墳では後円墳の周囲が墓地になってしまっています。

 宮内庁の主張どおり、ここに仁徳天皇が葬られていると仮定しましょう。そもそも仁徳天皇とはどんなお方だったのでしょうか。仁徳天皇は大雀命(おほさざきのみこと)という御名前でした。日本書紀によれば、あるとき天皇が高い山に登って国を見て仰せられました。「炊煙が立っていないのは民が貧しいからである。今から三年間、税と賦役を免除せよ。」そのため、宮殿は破損して雨漏りがするようになりましたが、天皇は修理せずに雨漏りがしない場所に移って雨水を避けられました。後に国見をした時に国中から炊煙が上っているのを見て、天皇は課税と賦役を再開されました。このように、仁徳天皇は非常に民思いの方だったのですね。したがって、仁徳天皇陵がこれほどまでに大きいのは、国民が大いに勤労奉仕をして天皇の御恩に報いたためと考えると矛盾はないように思います。なお、仁徳天皇の皇后はとても嫉妬深い方だったようです。記紀も時代が下ると、生々しい記述が増えるものです。