ダンテ「神曲」を読む②

【神曲に読まれない】

 「神曲」を読む場合、「神曲」を読んでも「神曲」に読まれないことが大事だと思うのです。

 

 地獄は人の想念が作り出したものですが、「神曲」においてはダンテが地獄を創造した部分が多いように思われます。ダンテ以前までは漠然としていた地獄の有様がダンテ以降に詳細に表現されるようになりました。ルネサンス期においては、ボッティチェリが「神曲」の挿絵を描きましたし、ミケランジェロは「神曲」に着想を得てシスティーナ礼拝堂に「天地創造」の壁画を描きました。それらの絵の中でダンテが想像した地獄が具象化されています。 

 

 「神曲」の地獄篇において、地獄はすり鉢状にくぼんでいて漏斗状の構造をしているといいます。すなわち、深くなるほど下層の地獄となり、最下層の地獄は煉獄とつながっているというのです。読者がこの蟻地獄のような地獄の姿を別世界として傍観するのはいいのですが、自分が蟻地獄に落ちて地獄のとりこにならないように気をつけなければなりません。例えていうならば、「神曲の地獄」がミクロのものならば、「神曲」のウイルスに感染しないように防御しながら顕微鏡で「神曲の地獄」を覗きみる。あるいは、「神曲の地獄」が大きなものならば、直接そこに行くのではなく、ドローンを飛ばして搭載したカメラからの映像を見る。そんな風にして意識の防御をすべきだと思います。そのような対策をしないで「神曲の地獄」に直面すると、感受性が強い人は例えばケルベルスのうんちの話が心理的なトラウマになってしまうかもしれません。

 

 「神曲」は中世カトリック教会の世界観を色濃く反映しています。考えてみると「神曲」の内容から宗教的な疑問点が見えてきます。また、「神曲」の持つ宗教的な前提条件を無条件に受け入れるかどうかは、突き詰めて考えると異教徒にとっては踏み絵のような宗教的問題となるかもしれません。

 

 例えば、最後の審判の話です。キリスト教世界の終末思想では、世の終わりにイエスが再臨して死者が蘇り、裁きにより天国へ行く者と地獄に落とされる者とに分けられるとされます。天国と地獄の中間には煉獄があり、煉獄とは罪が軽い者が天国に行く前に罪を浄化する場所だといいます。キリスト教では死後の行き先は一回で決まり、死後の生まれ変わりはないそうです。これらの思想は真理なのでしょうか。

 さて、ダンテの「神曲」ではもうすでに地獄にも煉獄にも死者が入っています。亡くなって比較的年月が浅いベアトリーチェはもう天国に行っています。最後の審判はいったいいつ行われたのでしょうか?

 

 「神曲」に辺獄(Limbo)という場所が出てきます。辺獄はキリスト教の洗礼を受けていない者が死後に行くところだそうです。辺獄は異教徒やキリスト教以前に生まれた者が死後に行く場所です。すなわち、キリスト教徒でない者は天国に行けないということです。この考え方は真理なのか、独善ではないのかということについて時間がある人は一考してみるべきでしょう。

 

 「神曲」の天国篇にもキリスト教でいう人類の「原罪」が出てきます。「原罪」とは、人類の祖であるアダムとイブが蛇にそそのかされて、神から食べるなと言われた知恵の実を食べてしまった罪のことです。この「原罪」の思想がキリスト教徒の心に枷(かせ)をはめています。この「原罪」が正しいものなのかをキリスト教の中に居て判断するのは難しいのではないでしょうか。

 

 いろいろ疑問点を書いてきましたが、実際はキリスト教といっても様々な宗派があり、宗派ごとにいろいろな見解の相違があるようです。

 「神曲」を読むにあたっては、異教徒は宗教的見解の相違を一時棚上げする必要があるでしょう。

 

 [につづく]