映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」:ねじ曲がる時間軸

原作: 七月隆文(小説)

監督: 三木孝浩、脚本: 吉田智子

配役: 福士蒼汰(南山高寿)、小松菜奈(福寿愛美)、東出昌大(上山正一)

 三木孝浩監督は「青空エール」が良かったので期待していましたが、さすがでした。

  この作品は京都を舞台にした若者のラブストーリーですが、時間設定に思いっきりひねりと反転が効いています。 この映画はパラレルワールドもので、その時間軸がこの世と逆というのが斬新です。エッシャーのだまし絵は空間ですが、この映画には時間のだまし絵のような味わいがあります。このような時間の設定が受け入れられる人にとっては凄く楽しめる映画でしょう。 

 映像的には、冬の京都の朝のやわらかな日差しをうまく使った画面が美しいです。また、京都で暮らす大学生の日常生活感がよく描かれていました。ヒロインの小松菜奈は「溺れるナイフ」とはまた違った神秘的な雰囲気で、この映画としても良く合っていました。なお、登場人物の顔面アップのシーンが多いので、この映画を鑑賞するには映画館の後ろ寄りの席がいいでしょう。

 

【あらすじ】

 主人公の美大生・南山高寿は通学途中の電車で美容専門学校生・福寿愛美に一目惚れをして告白します。それから二人はとんとん拍子に付き合うようになりましたが、愛美には重大な秘密がありました。なんと、愛美は時間の進行方向がこちらの世界と逆である、もう一つの世界から来ていたのでした。お互いが20才の時の30日間だけこの世界で出会えるということが分かり、高寿の恋は意味合いが変わっていきました。それ以外の時にも二人は会っていて、片方が5才の時にお互い同士で助けたり助けられたりしていました。二人の出会いは、命の恩人同志の運命の出会いだったのです。映画は二人の出会いと別れをそれぞれの立場で二方向から描きます。

  

【時間について考える】

 世界(universe)はその語源どおりたった一つ生まれたものであって、物質的世界のパラレルワールドは存在しないと私は思っています。「宇宙」という漢字は空間と時間の広がりを意味します。宇宙の最初にビッグバンによって物質が拡散し始め、そして空間と時間が広がり始めました。それから宇宙は膨張し続けています。物質的世界では様々なエネルギーが変化して最終的に熱エネルギーとなりますが、この流れは不可逆です。この宇宙では時間の流れは一方通行です。もしも時間が逆行するならば、因果律が破れて矛盾が生じてしまいます。

 

【この映画の時間設定】 

 この作品では、逆行する時間軸を持つパラレルワールドから愛美がこの世界に来たと設定しています。映画の中に二つのらせんで描いた世界が交わる図が出てきました。

 

 私は、この作品の世界観を理解するために、山の手線を走る列車を時間のモデルとして考えました。すなわち、山の手線の内回りと外回りとで時間が逆向きに流れるものと仮定します。その世界の住人は電車の中にいる人とします。内回りと外回りを走るそれぞれの電車が線路ですれ違う時に二つの世界が時間を共有しますが、それは一瞬であり、人が電車から電車へと移ることはできません。ですが、両方の電車が同時に東京駅に停車する時間帯があるとしましょう。その時にホームを通って愛美が別の電車に移ることが可能です。そして愛美はそれぞれの電車が発車する前に元々乗っていた電車に戻ります。その停車時間が映画では30日間ということになります。映画では5年毎に二人が会うことが可能だという設定でした。二人が再び会うまでの5年間は二つの電車が山の手線を逆方向に一周して再び東京駅に着くまでの時間に相当します。作品では、片方が35才の時相手が5才、30才の時10才、25才の時15才、そして20才同士のそれぞれの時期に二人が会っていたという設定でした。

 

 愛美はこちらの世界に来ているので、こちらの時間軸に乗って生きるのが当然だと思います。しかし、作品では愛美のこちらの世界での時間は一日毎に未来から過去に遡っていくのでした。それゆえ高寿にとっての初めてのことが愛美にとって最後のことになるのが哀れであります。

 

 この作品の時間設定によって矛盾が生じていました。愛美にとって未来の事は過去の高寿に起きたことであり、愛美はそれを高寿に話してもらって知るわけです。高寿が5才の時に池に落ちたのを女の人に助けてもらいました。その人のことについて、高寿も両親も知らない女の人だと愛美に言いました。5才の高寿に起こったことは20才の愛美にとっては未来の事になるのに、愛美は自分が助けたと言っていました。どうして愛美はその人が自分だと知ったのでしょうか。

 

 映画では、高寿5才・愛美35才、高寿10才・愛美30才、高寿・愛美ともに20才、高寿25才・愛美15才、高寿35才・愛美5才のシーンが出ていました。それぞれの時期の二人は年齢的には、息子と母、甥と叔母、恋人同士、年が離れた兄と妹、父と娘の組み合わせに近いと思われます。いずれも親愛なる人間関係ですが、この作品は年齢が異なる親愛な男女二人がいずれも同一人物だったらどうかという発想でしょうか。この映画で20才同士の男女の運命の出会いから別れまでの期間を、新月から満月になり再び新月になるまでの30日間としたのは秀逸です。この出会いから別れまでの時間を究極まで圧縮すると一期一会になります。「また明日ね」という二人の合言葉は哀しいものです。また明日会えるってことは当たり前のようでいて、なんと素晴らしいことなのでしょうか。