折口信夫「死者の書」:死者に違和感

折口信夫「死者の書」 岩波文庫

 

 奈良時代ってどんな感じだったのだろうか、とある時ふと思いました。四・五百年前の戦国時代を題材にした小説は雨後の筍のごとく多いのですが、1200年前よりもさらに古い奈良時代を扱った文学は少ないものです。それで以前から気になっていた「死者の書」を読んでみました。

  「死者の書」は戦前・戦中にかけて折口信夫によって書かれた、奈良時代を舞台にした小説です。この小説は難解といわれます。この小説を深く理解するには時代背景に関する知識が要るでしょう。わかりにくいのは、時系列が前後しているのと、登場人物の言葉と叙述文との区別がつきにくい文体のせいでもあるでしょう。

 この作品はネットの青空文庫にも収録されています。私は岩波文庫を買って読みましたが、こちらの方がわかりやすいと思います。

  この小説の着想はいい線いっていると思いますが、死者の霊に関する表現には違和感を覚えます。出てくる和歌や奈良時代の雰囲気を理解するのに良い文学だと思います。

 

 【あらすじ】

  奈良時代のあるとき、二上山の塚に埋葬されていた死者が目覚めます。そして自分が何者だったか思い出しました。その名は滋賀津彦(しがつひこ)。彼は朝廷に対する謀反の罪で殺されたのでしたが、死ぬ直前に自分を見て悲しんでくれた耳面刀自(みみものとじ)が忘れられずに、時代が下ってから目覚めたのでした。耳面刀自とは藤原鎌足の娘です。

 その頃、美しく信心深く聡明な未婚の娘・藤原南家郎女(ふじわらなんけのいらつめ)はゆくゆくは枚岡神社か春日大社の斎き姫にと期待されていました。藤原南家とは藤原鎌足の息子・不比等の長男である武智麻呂(むちまろ)の家です。武智麻呂の長男が豊成でその娘が南家郎女です。ですので、耳面刀自は南家郎女の祖父の叔母になります。

 南家郎女は阿弥陀経一巻の一千部書写の発願をしましたが、千部近くなると筆が進まなくなりました。彼岸の中日のこと、二上山に沈む夕日を見ていた南家郎女はそこに荘厳な如来の姿を観ました。それから筆が進み、一千部目の写経に入った晩のこと、南家郎女は失踪しました。その一件は都でも話題となり、南家郎女の消息について大伴家持は藤原仲麻呂(恵美押勝)と噂話をしました。藤原仲麻呂は武智麻呂の息子であり、豊成の弟です。ですので、藤原仲麻呂は南家郎女の叔父になります。

 藤原南家の者たちは南家郎女を探しに二上山に行き、魂ごいの行をしますが、滋賀津彦の塚の前で呼ばわったところ、塚の中から返事が来たことに肝をつぶして逃げ帰りました。南家郎女はなぜか当麻寺に迷い込みました。女人禁制の結界に入ったということで寺の者達はただではおかれぬと騒ぎになります。そこに藤原南家の者たちが来て南家郎女を帰せと当麻寺側と押し問答になりますが、南家郎女自身が寺に留まって償いをしたいと言ったことで、そのように決まりました。

 ある夜のこと、寺で過ごす南家郎女の元に滋賀津彦の霊が現れました。滋賀津彦はつた、つた、つたという足音をたててやってきました。郎女は帷帳(とばり)の中で身を固くします。滋賀津彦は、耳面刀自の子孫の娘が我が妻に来いというようなことを言います。そして帷帳をつかむ指の白い骨が見えました。郎女は阿弥陀仏を唱えて安心をしました。そんなことが何回かありましたがだんだん起こらなくなりました。

 郎女は滋賀津彦に着物を着せてあげたいと思うようになり、機織り機を取り寄せました。そして蓮の糸で壁に掛ける一面の反物を織り上げました。そこに郎女が絵具で伽藍と仏を描き上げると画面にみるみる数千の菩薩が浮き出てきたのでした。

 

【時代背景】

 奈良時代に大津皇子が二上山に葬られたという伝説がありました。二上山の当麻寺に伝わる中将姫の伝説、二上山に沈む夕陽、山越しの阿弥陀像の来迎図、そういったものが折口信夫の頭の中で結びついてこの小説が生まれたのでしょう。細かい事項は以下に記しました。

 

奈良時代 奈良に平城京が置かれた西暦710年から京都の平安京に遷都された794年までをいいます。 聖武天皇治世の752年に東大寺の毘盧遮那仏の開眼供養会が行われました。大仏建立は当時の巨大な国家プロジェクトでした。しかし、わずか32年後の784年に桓武天皇は大仏を捨てて山城国に遷都したのでした。755年には東大寺戒壇院の四天王像が開眼されました。784年から794年までは長岡京に都がありました。

 

大津皇子 (663-686年): 天武天皇の皇子で、天武天皇の崩御後に謀反の疑いをかけられて捕らえられ、磐余(いわれ:桜井市から橿原市のあたり)にあった自邸で自害させられました。その亡骸は二上山に葬られたと伝えられます。「死者の書」では大津皇子は「滋賀津彦」という名前で書かれています。大津皇子の辞世の歌がそのまま、「死者の書」の滋賀津彦の歌として使われています。

 「百伝ふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ」

 

二上山(にじょうさん、ふたかみやま) 大阪府と奈良県の境の金剛山地北部にあり双耳峰をなす山です。東方には三輪山があります。大和三山のあたりから見ると二上山は西北西に位置していて、初夏には二上山に日が没するのでしょう。

 

藤原氏 中臣氏から別れた貴族。中臣氏は祭祀を司り、藤原氏は政治を行いました。

 

枚岡神社・春日大社 枚岡神社は大阪市にあり、春日大社は奈良市にあり、ともに藤原氏の氏神である天児屋命(あめのこやねのみこと)を祭る古社です。

 

 

 ●当麻寺(たいまでら) :奈良県葛城市、二上山の東麓にある真言宗と浄土宗の寺。国宝の当麻曼荼羅で有名。なお、当麻曼荼羅は蓮の糸ではなく絹糸で織られているそうです。

 

●中将姫の伝説 藤原豊成の娘である中将姫は当麻寺で出家し極楽往生を願いました。その中将姫が蓮の糸から織り上げて染め上げたのが当麻曼荼羅であるとの伝説です。なお中将姫が29才で亡くなったときに阿弥陀如来と諸菩薩が現れて姫は極楽往生したといいます。

 

●山越しの阿弥陀図:来迎図(らいごうず)の一種。来迎とは人が死ぬときに阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を脇侍として御迎えに来てくれることです。山越しの阿弥陀図は山の端から阿弥陀如来が半身を突き出す姿で現れる図案の来迎図です。 荘厳な日没から阿弥陀如来の姿を想った古代人のセンスは卓越していると思います。

 

●大伴家持(おおとものやかもち 718-785):奈良時代の貴族で歌人で有名。大伴氏一族は元々は天皇家のための戦闘集団であったが後に形骸化。長岡京造営中の藤原種継暗殺事件に関与したとされて、家持は死後なのに罰せられました。

 

 

【感想】

●変な滋賀津彦

 まず、「滋賀津彦」のネーミングが変です。皇室に遠慮して人名に「皇子」ではなく、「彦」を使ったのでしょう。「吉備津彦」という名称がありますので「彦」を使うのはいいと思います。大津彦だと大津皇子と露骨に似ているので別の名称を考えたのでしょう。ですが、「滋賀津彦」では語感が変です。「しがつひこ」と入力すると「四月彦」と変換されます。同音でも「志賀津彦」と表記した方がまだましだと思います。

 滋賀津彦は自分の事を「おれ」と言います。これは実に昭和っぽい自称であり不自然です。古代の貴人ならば、「我」のほうがふさわしいでしょう。

 滋賀津彦は謀反の罪で刑死したことになっています。その際に妻は殉死し、息子も被害にあいましたが、そのことは滋賀津彦はたいして気にしていないようです。しかし、自分が死ぬ間際に悲しんでくれた耳面刀自(初対面)に執着があり、死後に目覚めます。この性格はかなり変です。妻子を愛していなかったのでしょうか。死んだ後に耳面刀自を忘れられずに成仏できないのであれば、すぐに耳面刀自の前に現れるべきです。それをこの男は世代を越えた別人の藤原南家郎女の前にのこのこと現れたのです。しかも白骨化した見苦しい姿で。死者の霊が白骨の姿で現れるのはいかにも不自然です。死者の霊は人の前に生前の姿で現れるものでしょう。上田秋成の「雨月物語」にも死者の霊がいろいろと出てきますが、白骨ではなく生前の姿で現れています。

 

●結局、滋賀津彦はどうなったの?

 白骨化したストーカーのような滋賀津彦の霊が出た点で、普通はキモイと思ったり恐怖をいだくものですが、藤原南家郎女は偉かったです。南家郎女は滋賀津彦の供養の意を込めて蓮の糸で曼荼羅を織り上げ仏の絵を描きました。では、その後、滋賀津彦はどうなったのでしょうか。供養されて地涌の仏に導かれて成仏したのか、変化無しかなのか、まったく小説に記載がないのです。これでは尻切れトンボの結末でしょう。

 

●大伴家持は何のために出てきたの?

 大伴家持は一体何のために出てきたのでしょうか。大伴家持は藤原仲麻呂と話をした際に藤原南家郎女の失踪の件をちょこっと話します。たったそれだけのために大伴家持を出したのでしょうか。その知名度にも関わらず、なんというチョイ役なのでしょうか。この子煩悩な名家の高官がなおさら気の毒に思える扱いです。

 

 というわけで、いろいろと突っ込みましたが、それだけ読者がいじり甲斐がある小説だと思います。ウグイスの鳴き方が変とかまだ他にもあります。物好きな人は是非読んで楽しんでみてください。