映画「沈黙」を見て、踏み絵をふむ

原作:遠藤周作

監督:マーティン・スコセッシ

配役:アンドリュー・ガーフィールド(セバスチァン・ロドリゴ司祭)、アダム・ドライバ―(フランシス・ガルぺ司祭)、窪塚洋介(キチジロー)、リーアム・ニーソン(クリストヴァン・フェレイラ教父)、イッセー尾形(井上筑後守)、浅野忠信(通辞の侍)、笈田ヨシ(イチゾウ)、塚本晋也(モキチ)、小松菜奈(モニカ)、加瀬亮(ジュアン)

 早くも今年一押しの映画が現れました。遠藤周作のキリスト教文学をスコセッシ監督が忠実に映画化したものです。江戸時代初期の鎖国下の日本国長崎を舞台にして古代ローマ時代のようなキリスト教徒迫害が描かれます。キリスト教と仏教の間の教理論争もあります。この映画は神と信仰について深く考えさせる内容を持っています。そして、見る人にも踏み絵を迫るような残酷な力があります。

【ストーリー】長すぎます(映画も)。どうぞ飛ばしてください。

 

 日本で布教していたフェレイラ教父がキリスト教弾圧により棄教したとの知らせがイエズス会にもたらされました。フェレイラ教父に教わった二人の若い司祭のロドリゴとガルぺには、フェレイラ教父の信仰心の強さからそのような知らせは信じがたいものでした。日本に残るキリスト教徒を導く司祭がいないことと、フェレイラ教父の消息を知りたいために、二人は危険を冒して日本に渡航することを決意します。マカオについた二人は帰国したがっていたキチジローという日本人を道案内にして中国人の船に乗り、長崎のトモギ村に上陸しました。二人は村人に発見されましたが、村人はみな切支丹であり、パードレ(宣教師)が来たことで狂喜しました。二人は炭小屋にかくまわれました。村人のじいさまのイチゾウは、役人にキリストの踏み絵をさせられたら踏んでいいかと悩みながら尋ねました。ガルぺは反対しましたが、ロドリゴは踏んでいいと言いました。ある日、村に役人がやってきて村人からイチゾウとモキチとキチジローともう一人の男を選んで踏み絵をさせました。全員踏みましたが、踏むときに呼吸が荒くなったのを役人は逃しませんでした。そして、キリストの十字架につばを吐けと迫りました。イチゾウとモキチともう一人はどうしてもできませんでしたが、キチジローはつばを吐いて放免されました。切支丹だとばれたイチゾウとモキチともう一人は海岸で水磔にされました。満潮で体を波が洗う位置で十字架に縛られて三人は衰弱死し、火葬にされました。二人の司祭は村に居ずらくなり、ガルぺは平戸を目指し、ロドリゴは五島を目指して別れました。

 ロドリゴは五島でキチジローに再会しますが、キチジローの裏切りにより通報され役人につかまってしまいました。キチジローは褒美の銀三百をもらいましたが、脅されたからだといって泣きました。ロドリゴは長崎に送られますが、途中で捕まえられた切支丹一行の中の洗礼名モニカという娘や片目の男ジュアンと会います。モニカはロドリゴに瓜をくれました。ロドリゴは長崎で牢に入れられ、モニカやジュアンとも再会しました。牢で過ごすロドリゴに通辞の侍が親しく話しかけます。そして宗教について問答をしましたが話は平行線でした。侍はロドリゴが転ばなければ(棄教しなければ)、切支丹の百姓が穴吊りにされると言いました。また、フェレイラ教父が転んだことも話しました。

 ある日、ロドリゴは井上筑後守の取り調べを受けましたが、井上の口調は意外に優しくロドリゴの労苦をねぎらうものでした。井上は日本国はキリスト教を邪教だとして禁ずるのではなく、その教えが無益であるからだと言いました。それに対して、ロドリゴは真理は普遍であり日本でも正しいと言いました。井上はキリスト教は根付かないといいました。別の日にキチジローがロドリゴの牢の外までやってきて大声で謝り、番人に出されていきました。ある日、奉行所の庭でモニカやジュアンやその他の者の踏み絵がありました。役人は形だけでも踏めばいいのだぞと言いましたが、全員絵を踏みませんでした。その後ジュアンだけその場に残されましたが、不意に刀を持った役人に首を落とされてしまいました。

 別の日に井上はロドリゴを呼んで茶をふるまいます。井上はポルトガル、スペイン、イギリス、オランダを仲が悪い四人の妾に例え、日本国がこの四人を離縁したことが賢いとロドリゴに言わせました。ロドリゴは正室としてロドリゴの教会を娶ることを勧めました。井上はキリスト教の布教を醜女の深情けと例えました。また、日本で教えが育まれないキリスト教を生まず女とも例えました。

 ある天気のいい日にロドリゴは通辞の侍に連れられて浜辺に行きました。小舟が用意されているのを遠くから見ています。そこに、先日踏み絵を拒否したモニカを含む四人が連れられてきました。四人はむしろで簀巻きにされました。そこに、ガルぺも現れました。通辞は、四人はすでに転んでいて、ガルぺが転べば命は助けられると言いました。四人は舟に乗せられ、浜辺を離れます。そして次々に四人は海に投げ込まれました。大声で叫びながらガルぺが泳いで船べりに近づきますが、役人はモニカもガルぺも棒で押さえて海に沈めたのでした。通辞はパードレが日本で身勝手に布教することで日本人が死ぬと言いました。そして、ガルぺはまだ潔かったがお前はパードレの名にも値せぬ卑怯者だとロドリゴに言いました。

 ある日、ロドリゴは寺でフェレイラと面会しました。懐かしい気持ちを前面に出すロドリゴに対してフェレイラは気まずそうにしています。フェレイラは今、天文学の本を書き、そして顕偽録という切支丹の誤りを記した本を書いていると言いました。フェレイラは棄教して沢野忠庵という名前をもらい、死刑になった男の妻と子供ももらっていました。フェレイラは自らが穴吊りにされたときの耳の後ろの傷を見せました。穴吊りというのは、人を逆さ吊りにして穴に半身を入れる拷問であり、そのままでは頭が充血して死んでしまうので、耳の後ろの血管に穴を開けてすぐに死なないようにするのでした。フェレイラは日本で布教するのは沼地に苗を植えるようなものであり、根が腐りたちまち枯れてしまうと言いました。そして、日本で切支丹が信じた神は我々の神ではなく、大日という彼等の神だった。それをキリスト教徒になったのだと我々は思い込んでいた。日本ではキリスト教の神は変質させられ、別のものになっていた、とも言いました。

 ロドリゴはいよいよ自分が穴吊りにされると思いました。そして、殉教したイエスを自分と重ね合わせていました。その夜、ロドリゴは番人のいびきが気になって眠れません。そして人を呼ぶと、通辞とフェレイラが現れました。フェレイラはそれはいびきではなく、穴吊りにされた人の呻く声だといいました。そして、自分は穴吊りにされたせいで転んだのではない、神に必死に祈ったのに神が何もしなかったからだと言いました。そして、もしキリストがいたら、人々を救うために転んだだろうと。ロドリゴは泣きながら用意された銅板のキリストを見ました。そのとき、キリストの像は「踏むがいい」と語りかけました。ロドリゴは絵を踏んで泣き崩れたのでした。

 その後、ロドリゴは長崎でフェレイラとともにオランダからの輸入品からキリスト教の物が混じっていないかチェックする仕事をしました。その後、江戸に行き、岡田三右衛門という名前をもらい子連れの未亡人をめとりました。キチジローがやってきて、告悔を聞いてほしいと頼みました。もうパードレではないのだがと言いながら、ロドリゴはキチジローの懺悔の告白を聞いていたのですが、その時キリストの声が「踏むがいい。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」と言うのが聞こえました。その後、岡田三右衛門となったロドリゴは定期的に切支丹ではないという証書を書かされて、踏み絵も踏まされました。キチジローは岡田三右衛門と一緒に過ごしていたのですが、あるとき踏み絵の際にキリスト教物のペンダントをしていたのを役人に見つかり連れていかれました。その後、岡田三右衛門は長生きしましたが、亡くなると火葬にされました。その遺体はイチゾウにもらった手作りの十字架を持たされていました。

 

【感想】

 映画の中のどの人物の役がやりたいか、そして自分ならどうするかと考えることがあります。この映画では正直言ってどの人物にもなりたくないし、なってみたところで他にやりようがないという感じがします。それほど、この映画に描かれた状況は絶望的で閉塞的であり、やりきれないものです。二人の理想に燃えた司祭がキリスト教禁止の日本国に来なければ悲劇は起こらなかったのにとまで思ってしまいます。

この映画(原作も)が突きつける疑問点は以下の点でしょうか。これは私にとって一種の踏み絵です。

1.心が弱くて司祭を裏切ってから懺悔をする者を神は許すか。

2.棄教しなければ信者が殺される状況で棄教は許されるのか。

3.なぜ神は信者の受難に対して沈黙しているのか。

4.日本では本当のキリスト教は根付かないのか。

 

 私の考えはこうです。

1.心が弱くて司祭を裏切ってから懺悔をする者を神は許すか。

 この映画ではキチジローのことであり、イエスを裏切ったユダをなぞらえています。彼等を神は許すと思います。

 

2.棄教しなければ信者が殺される状況で棄教は許されるのか。

 許されると思います。宗教は預言者を通して伝えられた神の教えであり、神そのものではありません。教えと人の命では人の命の方が重いと考えます。

 

3.なぜ神は信者の受難に対して沈黙しているのか。

 神は黙って聞いているが何も言わない。または、神は何か言っているが人が聞き取れないだけ。映画ではキリストがロドリゴに語りかけていました。

 

 さて、神は基本的にはあまり語らないと思います。むしろ、いちいち細かいことは指図しないのが本当の神でしょう。それと、この地球では神は全能ではないと思います。というか、全能であっても、神は人間社会にあまり介入しないようにしていると思います。というのは、この地球を主宰しているのが人間だからです。この地球という物質的な星では、万物の霊長である人間にその運営が任されているのだと思います。人間は神に似せて作られました。そして人間には想像力と創造力が与えられました。万物が成長し発展していくのが宇宙の進化の方向性です。地球では人間が主体的に進化するように神から任されているのだと思います。ですから、例えば地雷撤去などは神ではなくて人間がやりますし、この地球には人間がなすべきことが非常に多いです。基本的に人間どうしのごたごたは人間の間で解決せよというのが神のスタンスなのではないでしょうか。

 

4.日本では本当のキリスト教は根付かないのか。

 本当のキリスト教の神って何でしょうか。それを定義できないならば意味がない質問です。

 

 映画を見て思ったのは、殉教していった日本の貧しい農民が信じていた神が本当のキリスト教の神でないとするのは残酷すぎませんか、ということです。

 キリスト教はいろいろとシンボルが多い宗教のように思います。十字架がそうですし。踏み絵などは私にはただの板であり、それがキリストのわけはないと思うのですが、そこにシンボルがあるとキリスト教徒は捉われてしまうように思います。その点、イスラム教で偶像崇拝を否定しているのに共感する部分があります。偶像を拝むな、神の本体に向き合えというのは正しい考えだと思います。ちなみに、キリスト教のカトリック教会では遺体は土葬にします。火葬にして肉体が灰になると死後の復活ができないと考えられてきたからです。

 人間が未熟な時代は宗教で正しい道を示す必要があったと思います。神はイエスや釈迦など肉体を持って生まれた人を通して正しい道を示しました。しかし、時代を経るにしたがって、彼等が説いた教えは変質していきました。どの宗教も慈悲を語っています。しかしながら、映画で示されたように、たかだか四百年足らず前の昔の日本にも、そして今日の世界にも宗教的な対立があります。イエスも釈迦も霊界で仲良くしているのに、地球上では宗教の違いで争っているのは嘆かわしいことです。

 

 人は神の名でだまされるのです。ゼウスと呼べば神はゼウスの姿で現れ、ゼウスの性格を示します。大日如来と呼べば大日如来の姿で、天照大御神と呼べば天照大御神の姿で、お天道さまと呼べばお天道さまの姿で現れます。それらは全部違うものなのでしょうか。人間でも、家族の中で、お父さん、息子、兄さん、叔父さんといろいろな呼び名がある人が同一人物でありえます。同一人物であっても呼び名で家系の中での役割が異なります。さらに同じ人が社長と呼ばれたり、納税者と呼ばれることでも働きが異なります。神の名もそういう性質のものでないでしょうか。それと、同じ人物でも格好で働きが異なります。同一人物が白衣を着ていると医者であるが、普段着では遊び人であってもいいわけです。神もその本体は同じかもしれないのに名前によって姿と働きが異なるのではないでしょうか。マリア様は優しくて人気ですが、マリア様を似た「気」を出す観音様と置き換えたら間違いなのでしょうか。

 

 神もいろいろと階層があります。日本の古事記では最初の神は天之御中主神、そして高御産巣日神、神産巣日神、それから四柱の神が出て、伊邪那岐神と伊邪那美神が生んだ神がいろいろ出現し、その中に天照大御神があって皇室の祖になっているというのです。皇室の中にも応神天皇みたいに八幡様として神になった方もいらっしゃいます。日本では根源的な宇宙神として天之御中主神が該当すると思います。ただ、日本では絶対的な一神がすべてではなく、八百万の神が仲良く暮らす国だということです。

 日本の精神は聖徳太子がおっしゃった「和をもって尊しとなす」です。日本人は本地垂迹説によって後から入ってきた仏教の仏と日本古来の神とを調和させてしまいました。キリスト教の神については、意外にどういう神かであるか詳しく説かれていないように思います。それがどのような神であっても日本人に受け入れられる可能性がありました。ただし、今までの神仏を捨てて、先祖の信仰も捨てて、キリスト教の神を信じろと言われた日本人の戸惑いはどうだったでしょうか。この世の中は労苦に満ちているが、この宗教を信じれば死後に天国に行けるという教えは欺瞞ではないのでしょうか。この現世を天国にすることこそが大切ではないのでしょうか。ともかく、この映画で井上は棄教すれば命は助け、日本人として生きていく道をロドリゴに与えました。この心は、現代の狂信的なイスラム教原理主義者が異教徒に対してとっている態度と比べるとかなり寛容なのではないでしょうか。

 

 万物の創造主が神であるのなら、実は水素も神でありえます。水素は宇宙に遍在し、集まって恒星となり光明をもたらします。水素は酸素と結びついて水となり生命の源となります。水素の持つおだやかな気は万物の生みの親のようです。もしも水素が意識を持つならば、これは神でしょう。そして水素は人間の中にもたくさん存在しています。もしも水素が神ならば、人間はまさに神の子であるでしょう。そんな妄想さえ考えられるほどに、神という概念は広いものです。日本では田んぼの案山子でさえ神にしてしまいます。

 

 あなたのいう神と私のいう神とは本当にちがうものなのでしょうか。

 ちがったら仲良くできないのでしょうか。

 つくづく現代のこの国で信教の自由が与えられていることがありがたいと思います。