西中 務著 「運の良くなる生き方」 東洋経済新報社
徳を積めば運が良くなると、古来から言われています。
善因善果、悪因悪果ともいいます。
本当にそうなのでしょうか。
徳の反対は業でしょう。
悪業を積めば、本当に運が悪くなるのでしょうか。
現実は「憎まれっ子世にはばかる」が正しいようにも思われます。
我欲が強い者が謙虚な人を押しのけてのし上がっていく社会。
ブラック企業の経営者のように社員を搾取したり、
カルトの教祖のように信者を洗脳して貢がせたりする人が、
現世でいい思いをしているのではないでしょうか。
そのあたりのことを確かめたくて、
「一万人の人生を見た弁護士が教える」という副題につられて、
この本を買ってしまいました。
最初に言葉の定義をしておきましょう。
新明解国語辞典(第二版)から引用します。
徳には複数の意味がありますが、
徳:精神的・物質的に人を救済する善行。
業:[現在の環境を決定し、未来の運命を定めるものとしての]善悪の行為。
[狭義では、悪い行為を指す。]
この本では、「運は人徳できまる。」と断言しています。
「善いことをすると、運が良くなる。」
「人間性が良いと、一見、損な生き方をしているようでも、運が味方して成功します。」
「人柄が悪い人は、一時は成功しても、運に見放されて転落してしまいます。」
そう聞いて安心いたしました。
でも、頭がいい人は相手によって態度を変えていますよね。
力があって自分にとって役立つ人には取り入って、
力がなくて役に立たない人には冷たくあたりますよね。
西中先生は答えます。
「利益になるから優しくし、利益にならないから冷たくする。こんな人は運を逃がす。」
それを聞いて、気がすっとしました。
徳は弧ならず必ず隣あり。
論語「里仁」
この本の中で引っかかるところがありました。
「心は磨けません。目に見えませんから。まず目に見えるものをしっかり磨きなさい。」
ある禅寺に行き、座禅に来た目的を聞かれて、
「心を磨きに来ました。」と
西中先生が答えたのに対して和尚さんが言った言葉です。
そう言われたら、私なら禅寺の和尚さんに食ってかかるかもしれません。
「心は本当に磨けないのでしょうか。
心身を磨くというではないですか。
目に見えないものは磨けないのでしょうか。
技を磨くというではないですか。
王陽明が事上練磨と言ったのは、物を磨くわけではないでしょう。」
しかし、そんなことを言っても無意味でしょう。
心はくるくる移り変わるものです。
磨く対象は心ではなくて、むしろ魂なのでしょう。