映画「火花」:凍れる漫才

監督:板尾創路

 何だか怖いもの見たさで映画「火花」を見に行きました。これは又吉直樹さんの小説の映画化作品です。私はこの映画を見て原作よりも感動しました。菅田将暉と桐谷健太が話す生粋の大阪弁を聞いて、漫才はやっぱり話芸なんだと思いました。この映画を見て漫才師を続けるのはすごいことだと思いました。漫才師の十年は無駄ではなかったと強調しています。この作品を見た後では漫才師を見る目が尊敬に変わりました。

 映画で実感したのは、話し言葉の破壊力です。冒頭でコンビ「あほんだら」の神谷が観客に向けて「地獄、地獄」と連呼するのはきつかったです。映画では聴衆を一般市民からガラの悪い暴走族に代えていたのでまだ可哀想ではなかったのですが、仇をとったるとは八つ当たりもいいところです。

 最後の方でコンビ「スパークス」が解散ライブを行いました。漫才の中で徳永が観客に向けて「死ね、死ね」と連呼するところもきつかったです。それは言葉を反対の意味で使うという革新的な漫才であって「死ね」は「生きろ」という意味になるのですが、頭の中で変換するのが面倒でした。観客は若い女性が多くて、その漫才を聞いて静まり返りましたが、それは感動したというより凍り付いた感じでした。世の中に言霊があるとしたら、それは呪詛です。

 凍れる漫才とは、寒い漫才が結晶化したものです。神谷が徳永に向かって漫才師になったことは笑いというボクサーのパンチ級の武器を手に入れたようなものだと言いました。打てば打つほど客が幸せになるとのことでしたが、ローブローもあるのでしょう。

 やまとの国は言霊の幸わう国なので、福々しくて笑える漫才を聞きたいものだと思いました。

 

 これで感想終わりというのも何なので、原作と映画が違う所など少しとり上げてみましょう。

 冒頭で熱海の海水浴場の砂浜に神谷が一人、首まで砂に埋まってタバコを吸っているシーンがありました。腕も埋まっているので、タバコを吸うには誰かが吸わせてあげる必要がありましたが、協力者は映っていませんでした。このシュールな画面は神谷が奇人だという感じを強調していましたが、生き埋めにされた人を見ているようで私は不安になりました。この映画では神谷も徳永も何かとタバコを吸ってばかりいた印象があります。

 神谷の彼女の真樹さんが何かにつけて変顔をして徳永を笑わせたのも原作になかったシーンです。木村文乃の変顔を見られたのは貴重ですが、神谷との別れの際にも変顔はどうだったでしょうか。

 徳永が神谷に師匠になって下さいと頼んだときに、徳永が神谷を天才だと思った事は強調されなかったようでした。

 

 

 神谷は絶対的に面白い漫才を追求しますが、それは神谷本人にとって面白いものであって、客が面白いかどうかは問題にしません。神谷は純粋ですが自己中心的でもあります。徳永は客にとって面白い漫才を葛藤しながらも演じていき、そこそこ人気が出てテレビにも出ました。そうして徳永は神谷を追い越していきました。神谷は深く考えずに徳永の金髪とファッションを真似して、弟子の人真似をするんかいと徳永の非難を浴びました。借金で首が回らなくなった神谷は姿を隠し、漫才師を引退した徳永は会社勤めをしました。そんなある日に二人は再会したのですが、神谷はおっさんが巨乳だったら面白いだろうという考えで豊胸をしていて、徳永に決定的にダメ出しをされました。

 私はなんでそんな人を徳永は師匠に選んだんだろうと思いました。おそらく神谷の本質は出会いの頃から変わっていません。神谷はギャグのセンスが決定的に常人とずれています。それがわかるのに徳永は十年も費やしたんかい、と言うのは酷でしょう。漫才師と常人とで笑いのセンスに7割位の共通点がないと客にうけるのは難しいのではないでしょうか。

 

 運命は人との出会いで決まります。別の人を師匠に選んでいたら徳永はきっと違う人生を過ごしたでしょう。師匠と頼む人は年がもっと離れて親子くらいの方がいいと思いました。神谷は年齢的に徳永の兄弟子くらいの感覚がしました。その道を二十年、三十年と続けるとこうなるという姿を見せられる人が師匠にふさわしいのではないでしょうか。