夏目漱石夫妻への気学的影響を考える

【夏目漱石のこと】

 先月、NHKドラマ「夏目漱石の妻」の再放送を見ました。これは漱石没後100年に放映された作品であり、漱石の妻・鏡子の視点から漱石との家庭生活を描いた力作です。漱石の妻は悪妻だと私は漠然と思っていましたが、ドラマを見て認識が変わりました。鏡子役の尾野真千子と漱石役の長谷川博己の熱演を見てたいそう感動しました。それで、漱石への興味が高まったのでした。

 

 私が漱石の小説を読んだのは十代の頃でした。「坊っちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」と進んで一段落しました。思えば十代で「こころ」を読んで一体何がわかったのか疑問です。漱石は言わずと知れた明治の文豪です。彼は小説を著し漢詩・俳句を作る一方で、英文学の深い教養がありました。彼ほどに漢文と英語の両方がすごい人は今後出てこないかもしれません。

  

【漱石夫妻の気学的分析】

 私は先生が教えてくれた気学が正しいものと仮定して、漱石夫妻の人生への気学的影響を推定することを思い立ちました。なお、漱石の生涯はwikipediaの記載を参考にしました。

 引っ越し方位の影響を推定するには厳密には年月日のデータが必要ですが、必ずしも月日が明らかではありませんでした。漱石の転居状況が詳細不明であったり、漱石夫妻の住居の家相が不明であったりして、分析の精度に限界がありました。

 

●独身時代

 夏目漱石は1867年2月9日に江戸に生まれました。

 気学の命式では、丁卯年生まれ、本命・七赤、月命・八白、傾斜宮・四緑です。この命式から漱石の性格を推定しますと以下のようになります。

 知識に優れ、文才に恵まれます。苦労性で消極的な性質を持ちます。愛嬌があって外面は良いが、内面は悪く家族に対してわがままです。親戚・生家との縁が薄く、家庭運と金運が弱い傾向があります。合理的で頑固な一面と、芸術的感性が豊かで繊細な面を合わせ持っています。

 

 漱石は名主をしていた家の末っ子の五男として生まれました。両親が年取ってからできた「望まれなかった子」であったため、漱石は幼少時に里子に出されました。長じて漱石が20才の時に、漱石の兄二人が相次いで亡くなったことより、父の直克は漱石を里親から金で買い戻しました。そのような家庭事情が漱石の性格に暗い影を落としました。

 

 1889年(22才)に漱石は俳人・正岡子規と出会い、以後大きな影響を受けました。子規は漱石と同い年で本命・七赤、月命・九紫、傾斜宮・三碧の人です。この命式から考えるに、子規はすごく頭が良くて打てば響くような才人だったと思われます。漱石にとっては、誇り高い子規がまぶしく見えたのではないでしょうか。この年の七赤は離宮に回り、本命七赤の人は離合集散が起きやすい時期でした。まさに漱石と子規の運命の出会いのタイミングと言えましょう。

なお、子規は結核を患い、1889年に喀血をしたそうです。

 

 1890年(23才)に漱石は帝国大学(東京大学の前身)の英文科に入学しました。この頃より漱石は厭世的で神経衰弱になり始めたそうです。この年は七赤が坎宮に回っていました。坎宮に本命が回った時に、人は気力・体力が低下し内省的になる傾向があります。人によっては抑うつ状態に陥ることもありえます。

 

 1892年(25才)の7月から漱石は一月以上かけて子規と西日本へ旅行しました。子規と一緒に京都に行き、途中で子規と一旦別れて岡山に滞在し、再び松山の子規の生家にて子規と合流しました。7月は年月同盤の時であり、この時の西方位は七赤本命の人にとって本命的殺の凶方位に当たります。本命的殺には目的違いの意味があります。西の凶方位には肺の病気の意味もあります。この旅行は子規にとっても本命的殺の凶方位でした。子規は、試験に落ちたので大学を退学するという内容の手紙を岡山滞在時の漱石に宛てて書きました。

 

 1893年(26才)に漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師となりました。その頃に日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始めたそうです。この感覚に前年の本命的殺の目的違いの影響を感じます。この頃に漱石に肺結核が発覚したこともあり、漱石は極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになったそうです。心身に前年の凶方旅行の影響が感じられます。

 

 1895年(28才)に漱石は松山の愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)に英語教師として赴任しました。

 漱石は西方位へ大吉方で引っ越しました。この年は兌宮に八白が回り、七赤にとって吉でした。西の吉方に行くと喜び事が起きます。漱石は松山の生活を心から楽しんだのではないでしょうか。漱石は松山で子規の句会に属して数々の俳句を作りました。松山は小説「坊っちゃん」の舞台ですが、小説から明るくて伸びやかな松山生活が感じられます。西の吉方は身体的には肺に吉でした。漱石の結核の話はその後見当たりません。

 

 喜び事といえば漱石の縁談の件でしょうか。漱石は貴族院書記官長をしていた中根重一の目にとまり、長女の中根鏡子と知り合いました。中根重一は娘を帝国大学卒のエリートに積極的に嫁がせようとしました。鏡子は占いを好んでいて、鏡の占いをしてみたら「漱石と結婚すれば幸せになる」と出たので漱石に嫁ぐ決心をしたそうです。この年に漱石と鏡子は婚約をしました。

 鏡子は、1877年7月21日生まれで、丁丑年、本命・六白、月命・九紫、傾斜宮・二黒の人です。この命式から推定する鏡子の性格的は以下のようです。

 正義感が強くて根が正直です。好きになるとしつこい性質です。漱石が神経質でデリケートなのに対して、鏡子は気が強くて図太いと思われます。漱石よりも鏡子の方が実行力があったでしょう。

 

●新婚生活

 1896年(29才)、漱石は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に英語教師として赴任しました。この年に漱石は中根鏡子と結婚しました。中根鏡子は漱石にとってこの年の西への転居は本命殺で凶。鏡子にとっては七赤の祐気で吉でした。西の凶方は金運が低下します。漱石は高給をもらっていましたが、父への仕送りや洋書代、交際費などを除くとわずかな額しか残らず、家計を任された鏡子が絶句するシーンがドラマにありました。お嬢様育ちの鏡子は朝起きが苦手で、しばしば漱石は朝食抜きで出勤したということです。鏡子は苦しい家計をやりくりしました。広い家に漱石が友人をただで居候させようとするところを鏡子は格安でお金をもらうようにしたエピソードがあり、鏡子の方が漱石よりも金運があったことがうかがえます。

 

 1898年(31才)、この年は鏡子にとってはつらい年であったようです。鏡子は最初の子供を流産しました。ドラマでは鏡子は寂しさから漱石の職場を訪ねるも無視され、帰りに川に投身しましたが釣り人に助けられました。助けられた鏡子は運が良かったと言えましょう。最初の子は流産しましたが、鏡子はその後子宝に恵まれ、漱石との間に二男五女をもうけました。

 1899年(32才)に長女筆子が誕生しました。

 

●イギリス留学

 1900年(33才)に漱石は単身イギリスに留学しました。この年の兌宮には三碧が回り、漱石にとっては凶方でした。三碧の尅気は神経を病むという意味があります。西の凶方位に行くとお金に困りますし、楽しくないのです。物価高のロンドンで漱石は生活に困窮しました。そして神経衰弱がぶり返しました。

 なお、気学で地球の反対側に行くような遠距離の方位の決め方に二つの説があります。すなわち、メルカトル図法をとるか正距方位図法をとるかです。私が習った気学の先生はメルカトル図法だと教えてくれました。その考え方に従うと東西の移動では同緯度に行くことになります。したがって、日本から見てイギリスを西方位としました。

 

 1901年(34才)には漱石の神経衰弱は深刻になり、イギリスからの文部省への報告書を白紙で送ったほどでした。この年に次女・恒子が生まれました。

 

 1902年(35才)に漱石は文部省により急遽帰国を命じられました。この帰国時の方位が良かったのでした。年盤で震宮に六白が回り、漱石にとって東は大吉方でした。東の祐気は漱石を世に送り出すことになります。六白の祐気は官庁や大企業の引き立ての意味がありますし、六白の人の助けが得られます。その最大のものは鏡子の内助だったと思われます。

 この年に子規が結核で亡くなりました。

 

●小説家の人生

 1903年(36才)、帰国後に漱石は熊本の第五高等学校を辞職し、東京に住みました。東京の第一高等学校と東京帝国大学で教鞭をとりました。漱石は東京で数回転居しましたが、その時期と方位が詳しくわかりませんでした。また、どういう家相の家に住んでいたのかも不明でした。

 

 留学後の漱石は神経衰弱に妄想が加わり、鏡子にきつく当たったり女中に暴力をふるったりしました。精神科医は漱石を病気だと診断しました。鏡子は漱石がそうするのは、自分を嫌いになったためではなく、病気のためなのだと考えて離婚をせずに漱石を支える決心をしたということです。

 

 ドラマ中で漱石は小説家になりたいという希望を漏らしていました。

 ある日、漱石の家に黒猫が入り込んできました。これは福猫だということになり、その猫を夏目家で飼うことになりました。アニマルセラピーの効果があったのでしょうか、漱石の神経衰弱は快方に向かいました。

 

 漱石は猫の視点から人間社会を面白く風刺した処女作「吾輩は猫である」を書きました。猫が住んでいるのは漱石をモデルとした家族であり、頑固で癇癪持ちで胃弱の英語教師の苦沙弥先生、脳天に禿がある細君、三人の女の子が描かれていました。苦沙弥先生と細君の会話がかなり多いです。「猫」では家に泥棒が入ったことも書かれていました。

 1905年(38才)に「吾輩は猫である」が発表され、好評を博しました。

 1906年(39才)に、松山の教員生活に題材を得た小説「坊っちゃん」を書きました。

 1907年(40才)、漱石は教員を辞めて、朝日新聞社に就職し専属で小説を書くことになりました。漱石が小説を書いた期間はだいたい12年間でした。

   

●病気

 漱石は若い時から胃が弱く胃潰瘍に苦しみました。胃潰瘍はストレスが多い中年男性に多いそうです。漱石は酒は飲みませんでしたが、ヘビースモーカーでした。タバコは胃酸分泌を増やすので胃潰瘍を悪化させるそうです。現代ならピロリ菌感染の有無が胃潰瘍発症に関して問題視されるのでしょう。

 

 1908年(41才)漱石家に住み着いていた猫が死にました。その猫には本当に名前がなかったようです。

 1909年(42才)、小説で成功した漱石の元に絶縁していた漱石の養父が尋ねてきました。漱石が書いた念書の「不人情にしない」という文言をたよりに金を無心に来たのでした。ドラマでは漱石は養父に会ったのちに胃に激痛が走りのたうち回りました。鏡子はへそくりで長年貯めた大金を養父に渡すかわりに念書を取り戻し、養父に出入り禁止を言い渡しました。このときの鏡子は肝が据わっていました。苦しい家計からへそくりを貯めていたことから、鏡子に西の七赤の祐気の金運を感じます。

 

 1910年8月(43才)に漱石は修善寺温泉に行き、胃潰瘍の療養をしました。その地で漱石は大喀血をし危篤になりました。これが修善寺の大患です。修善寺は東京からみて南西にあたり、その時期の南西には年盤で六白、月盤で五黄殺が回っていました。すなわち年盤では吉、月盤では凶でした。このような場合は吉凶の影響が時期によってまだら模様のように混ざって出てきます。五黄殺は病気の悪化を意味します。医者と鏡子が修善寺に駆けつけ、幸い漱石は命を取り留めました。その後に漱石が「則天去私」の心境になったのは年盤六白の吉の影響があったでしょうか。

 その後、漱石は胃潰瘍に加えて糖尿病も患いました。

 

 体調が良い時期に、漱石は鏡子と一緒に長野に講演旅行に行きました。ドラマでは、長野の雄大な谷を見下ろす風景の中で鏡子が漱石に話しかけました。小説「坊っちゃん」の中に出てきて、主人公を心から愛し贔屓してくれた老女中の「清」は、実は私のことを書いたのでしょうと鏡子が問うと、漱石は「そういうことにしておこう」と答えたのでした。鏡子の本名はキヨだったそうです。

 

 1912年(45才)に漱石を写した、良く見かける写真が残っています。首をかしげて右手をこめかみにあてて物憂げに写っている漱石の左腕には喪章が巻いてあります。この写真は、明治天皇の大喪の礼が行われた9月13日に撮られました。私は、この写真の漱石の表情から悲壮さよりも、むしろ穏やかさを感じます。その日に乃木将軍夫妻が自刃しました。漱石は乃木夫妻の殉死に衝撃を受けたことでしょう。

 

 1914年(47才)、漱石は後期の小説「こころ」を発表し、作中で乃木将軍の殉死について触れました。「こころ」の中に描かれた「先生」は漱石の分身でしょう。小説の中で「先生」は自殺を選びました。漱石の心中に死に対する憧憬のような感情があったのではないでしょうか。本命殺を犯すと、死が美しいように思えて自殺願望が出てくるといいます。そのような心理は過去に漱石が犯した西方位の本命殺のせいなのかもしれません。しかし、漱石は自殺しませんでした。

 

 1916年12月9日(49才)に漱石は胃潰瘍で亡くなりました。未完の小説「明暗」が絶筆となりました。

 鏡子は1963年まで生き、85才で亡くなりました。

 二人の寿命に差があるのは、漱石の方が鏡子よりも多く凶方をとったせいだというのは言い過ぎなのでしょう。先天運の違いもあれば、遺伝・体質、家庭環境の違いもあります。でも、私には彼等がうけた後天の「気」の影響は無視できないように思えるのです。