「ほしのこえ」から「君の名は。」まで:新海アニメの本質を考える

 一昨年に公開されたアニメ映画「君の名は。」は大ヒットし、1900万人もの人が見たそうです。そして作年は「君の名は。」がハリウッド版映画で実写化されることが公表されました。今年のお正月には北海道で新海誠監督の一連のアニメがテレビで放映されました。そして、札幌では新海誠展が開かれました。新海誠の作品や展覧会を見て、考えたことを以下に書きます。

 

ガラパゴス化する映像表現

 「君の名は。」が日本アニメの集大成だとすると、新海アニメの映像表現に言えることは日本のアニメ全般にも共通して言えます。

 ガラパゴス化とは独自の方向で進化したものが世界標準から取り残されることをいいます。「君の名は。」が世界各国でも公開されたのは素晴らしいことですが、将来を考えると、映像表現においてガラパゴス化が懸念されます。

 

【人物と背景の画風の乖離】

 日本のアニメは基本的にマンガが動くものだと思います。新海アニメは背景のリアルさと美しさが特徴です。背景がリアルで美しい理由は、背景が写真を元にしながらも人の感性で描かれているためです。デビュー作の「ほしのこえ」の風景は写実的で美くて新鮮な驚きを感じましたが、「君の名は。」では風景の美しさが極限近くまで進んだと思います。その結果、マンガ的な登場人物と写実的な背景とで画風の統一性が失われつつあるように思います。人物と背景の画風の乖離の流れは、現在のアニメ制作の手法が変わらない限り続いていくでしょう。世界のアニメは登場人物が3D的にリアル化する流れにあるので、その点で日本のアニメが時代遅れになる可能性があります。

 

【キャラクターの類型化】

 日本のアニメは絵師がキャラクターの絵を描くところから始まります。そこで魅力的なキャラクターが創造できればいいのですが、登場人物はマンガ的であり、たいていどこかで見た絵柄に似ています。マンガとは写実をデフォルメしたものです。日本のアニメのキャラクタ―は実物から構成するのではなく、デフォルメされた結果の類型をなぞっているにすぎません。

 

【不自然な動き】

 アニメでは人物が動きます。アニメーターで人間の動きを写実的に観察できている人は少ないように思います。 日本のアニメのキャラは表情の変化や体の動きが不自然です。例えば、アニメで人物が走るシーンでは必ずぎこちない変な動きをしています。おそらくアニメーターはランニングしないし、人の走りの観察が甘いのです。小走りと全力疾走は違いますし、人の走りにも個性があります。それらの違いまで含めて人の走りを正確に表現できたアニメはまず無いでしょう。

 「君の名は。」で三葉と四葉の姉妹が神楽を舞う動きはいい線をいっていましたが、それは実際の人の動きをもとにしていたからでした。しかしながら、二次元の絵を動かす方法では、人間の動きを再現するのに限界があるでしょう。人間の動きや表情を正確に表現するには、解剖学に基づいた三次元の人体モデルをグラフィックなコンピュータゲームのように動かしたものを二次元に投影する必要があるのではないでしょうか。

 

【輪郭線の呪縛】

 アニメとは絵が動くものです。絵とはその人が本物を見たときにどのように見えたかを表現するものでしょう。アニメの原画は線描で表現されています。しかし、原画の線の力と味わいはアニメになると失われてしまい、人や物の輪郭線は単なる色の境界線に変わるようです。その結果、アニメはまるで動く塗り絵のようになってしまいます。人の輪郭に線を描くとすっぴんの人が化粧をしたようにコントラストがはっきりしますが、写実からは離れます。新海監督は「言の葉の庭」では人物の輪郭線を緑色にするという斬新な試みをしましたが、「君の名は。」では輪郭線の色を元に戻しているようです。しかし、アニメの人物表現に輪郭線は必要なのでしょうか。

 そもそも、物を見たときの輪郭は線でしょうか? 私には物の輪郭は反射光と影のように見えます。物の角が鋭い場合には反射光や影の幅が細くなって線のように見えることがありますが、人間の輪郭は線には見えないのです。

 人間の場合には、その輪郭は反射光と影にオーラ(霊光)を加えたものになるのではないでしょうか。人物の輪郭に明るく光る透明な帯を加えると実物に近づいた絵になると思います。オーラの明るさと幅と色で人物の個性も表現できます。しかし、今までにアニメで写実的にオーラの表現をした人は皆無でしょう。

 

ストーリーにみる個性

 新海アニメのストーリーは新海監督の個性を本当の意味で表しているのでしょう。

 

【男女の距離感の遠さ】

 新海作品は基本的には若い男女の恋物語です。そのストーリーの特徴は、男女の距離感が途方もなく遠くて、すれ違いになることでしょう。そして、女性の側が大きな試練を課せられる傾向があります。

 「ほしのこえ」では男女の中学生が登場します。ヒロインの「ミカコ」はなんとエイリアンとの闘いに駆り出され、しまいには8.6光年も離れた遠くに行ってしまいます。

 「君の名は。」は遠隔地に住む高校生の男女の霊体と肉体が分離して入れ替わるストーリーですが、男子の「瀧」が女子の「三葉」に会いに行った時には彗星の落下により三葉は亡くなっていました。

 「言の葉の庭」では高校生男子の主人公と教師のヒロインとの立場的な距離感が遠くて、ヒロインは生徒の嫌がらせが原因で退職していたという設定でした。「言の葉の庭」は新海アニメで珍しく男女が抱擁した作品でしたが、そのシーンは結末に近い場面でした。抱擁はプロセスとして、それからの人間関係の物語を見たいと思いました。

 

【時空を超えた恋】

 時空を超えた恋愛は成り立つかという壮大なテーマが、新海アニメの特徴でしょう。そこにハラハラドキドキ感が生じます。宇宙の字義は、空間と時間の広がりです。

 「ほしのこえ」では、ミカコが宇宙の遠くに行くにつれて通信の頻度が減り、間隔が長くなっていきます。しまいには8.6年前に15才のミカコが「わたしはここにいるよ」と発したメールが24才の「ノボル」に届きます。そのメッセージが届いた時にはミカコの生死が不明な結末だったように思います。

 「君の名は。」では霊体と肉体の分離と入れ替わりは同時期に起きていたわけではなく、時間差があったという設定でした。瀧が三葉に会いに行ったときにすでに三葉は亡くなっていました。それでも、神の不思議な力によって、ヒロインが霊体の姿でしたが、恋する男女が夕暮れの山の尾根でつかのまの逢瀬を楽しみました。それから、神力で過去に戻ることにより歴史を変えて三葉は生存し、後日に二人が再会するというラストでした。

 

【書き言葉で交流】

 新海作品では、若い男女がメールを使って書き言葉で交流する傾向がありました。「ほしのこえ」は今から30年も先の未来の話ですから、少なくとも画像と声でメッセージを送れば良さそうなものですが、男女の通信は書き言葉でした。「君の名は。」ではノートに文字を書いたり、携帯電話に言葉を残したりして交流していました。書き言葉で交流するのは文学的です。「言の葉の庭」で万葉集の和歌を詠んで男女が交流したのは、書き言葉からのみやびな発展形のように思います。

 

宇宙観のもしも

 アニメは現実界の制約が少ないので、ミニチュア版ですがあたかも神が世界を創造するように自由な内容の物語を作ることが可能です。そして、壮大なストーリーを作る際には、宇宙をどう考えるかが根幹となります。

 「ほしのこえ」では宇宙船はワープしますが、通信は光速で行います。SF的にはテレパシーといい、オカルト的には生霊とも言えますが、人の想念や思いは宇宙の中を一瞬で伝わるのでしょうか。それとも電磁波のように光速で伝わるのでしょうか。もしも宇宙が一体化していて意識が一瞬で伝わるものならば、男女がはるか離れていても同時に交流することが可能となります。

 

 また、もし宇宙の万物が意識の上で一体であるならば、どうでしょうか。もしもあなたが私で、私があなたであるならば、引き裂かれた男女の恋物語は創造主が見せるマーヤー(幻影)になります。

 新海アニメをヘルマン・ヘッセのシッダルタ風に言うならば、「そのとき、離れてお互いを求めあう男女の姿が見えました。それらは「死の意志」に翻弄されましたが、いずれも死なずに姿を変えるばかりでした。そしてそれらをすべて覆う希薄なものが透明な膜のように仮面のように張られていて、その仮面は新海誠の微笑む顔でした。」という感じでしょう。